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2016年1月15日金曜日

読後感する・本田靖春「誘拐」

久々読後感です。例によって頭悪いくせに良さそうに書いてますんで、鷹揚にお聞き流しのほどをよろしくお願いします。

武田砂鉄「紋切り型社会」痛烈にして辛辣な著者が作品中で自身の評論における絶対的指針と位置付ける本田靖治なる人物を知り、その代表作を手に取る。

戦後最大の誘拐事件と呼ばれる「吉展ちゃん事件」のノンフィクションである。
日本が高度成長期にスタートを切らんとする昭和33年、もはや戦後ではないとのスローガンの元社会が沸き立つ中、満ち潮引き潮境の潮目のような下町で起きた幼児営利誘拐殺害事件。
発生前夜から犯人逮捕、その後までを圧倒的取材量で構築した揺るぎない事実を基に、加害者被害者更には捜査側も加え、時に時系列で状況を開陳し時に隠し玉を絶妙なタイミングで投げ込んでは、あたかも読む者を事件の渦中にある関係者のごとき心情に追い込む。
それは武田の言うように徹頭徹尾事実を追いながら何の側にも与せず、被害者側に落ち度がないのは当然としても金のために幼子を殺めた男も決して悪鬼羅刹ではなく、時代と生い立ちの中で背負った暗い影が表出した瞬間に、不幸な巡り合わせが両者を交接させてしまったという視線で描き切っている。
そしてそれは新聞記者上がりの重厚な筆力と構成の妙以上に、あたかもうず高く積み上げられたおがくずが自然発火するのに似て、事実の重みが内側から発する熱量となって我々の胸にもまた重苦しく黒い炎が飛び火するかのようだ。

とはいえ終盤にかかり新たに専従とされた平塚警部が拘留期限や警察内部の軋轢の中、三度目に及ぶ再捜査の末崩したアリバイを元に小原を自供に追い込むくだりは、なまなかな小説など及びもつかないほど迫真のドラマである。
これはまた同時代に起きた他の数々の見込み捜査による冤罪事件が、決して前時代の職人気質が招いた弊害ではないことをも示している。何故なら平塚もまた職人であったが、彼の勘働きは予断や本ボシ願望ではなく、己の足で稼いだ瑣末な事実の積み重ねの上にしか成り立たなかったのだから。

読後の今思うのである。終章、死刑囚となった小原の遺した短歌に見られる痛ましく清澄な作品世界を。作中にあると同じく、彼に人並みの環境があったならどの様な人生を送っていたのだろうかと。またそれと同時に思うのである。恐らくそれは極限に至り発芽した先史時代の種子であって、日常においては流され失われて決して芽吹くことはないものだとも。

人として絶対に許されない罪と死をもって償わんとする罪人。
裁かれた結果としての死を前にした改悛の情は、果たして歎異抄説くところの悪人往生へと彼らを導いたのだろうか?
先に読んだ「教誨師」共々、死刑廃止をナンセンスとしてきた自分を揺るがす両作品であった。


重いお話の後にはお茶~~ん♥








 

 

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