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2015年2月27日金曜日

朗読を黙読する

「思考は言語なり」という言葉があります、あたしが作ったんだけど。ものを考えるってのは頭の中で言葉がぐるぐる回ってる事だと思うんです。であれば国民性ってのも言語に影響されてんじゃないでしょうか?ま、言葉の発生自体環境に影響されたんでしょうから、言葉が先か国民性が先か?という問題もありますわな。
「英語で詩を語り、フランス語で愛を語り、ドイツ語で神を語り、ロシア語でロバを叱る」なんつ~言葉もありますね。映画「独裁者」の中でチャップリンが使った、口述筆記のシーンのなんちゃってドイツ語は面白かった!アジテーション向きの言葉は、使い方間違うとヤバいっす。
ドイツ文学と意識して本を読んだことはありませんが、子供のころ何回も読んだケストナーの「エミールと探偵たち」はそうなのかしらん?先日読んだ「朗読者」もドイツの話でした。

15歳の私は、路上で貧血を起こしたところを一人の女性に介抱されます。やがてハンナというその美しい大人の女性と恋に落ち肉体に溺れてゆきますが、私のことを坊やと呼ぶ彼女はどこか掴みどころがなく、ある日不意に姿を消します。
大学で法科に進んだ私は、ゼミで見学した戦争犯罪者を裁く法廷で思いがけず被告となったハンナに再会。彼女はナチの強制収容所の看守だった過去があったのです。敗戦間近、収容者を連れて移動する途中起きたある悲劇により、多くの女子供を目の前で焼死させてしまった罪を問われる集団裁判でした。
実は彼女にはある秘密があり、そのため他の看守たちから罪を一身に負わされることになってしまい、長い懲役刑に処せられます。
私はかつて付き合っていた頃そうしていたように、本の朗読をして録音し、ハンナに送り続けます。そして釈放間近のある日、数十年ぶりで彼女に会い、今後の生活の後ろ盾になる約束をするのですが…。

かつてアメリカの大学で行われた、有名な心理学の実験があります。
一切内容を伏せて集めた学生達を、くじ引きで看守と囚人に分け、監獄に見立てた地下の教室で暮らさせたというもの。徐々にそれぞれが役割にハマり、強制、体罰、拷問へとエスカレートする中、逃亡した学生の訴えによって中止されるまで、主催者である教授までもが止められない狂気の中に取り込まれてしまったという。
力を持ったものと従わされるもの。人間の内に秘めた暗黒を表すエピソードとして、よく引かれる例です。
ハンナは結果的に多くの人を死に追いやった罪は罪として認めながら、その不作為性についてだけは自身疑問に思っています。だから刑罰を逃れようと人に責任を押し付ける他の看守達とは違う態度で法廷に臨み、却って検察側の心証を悪くしてしまいます。「だったらあの時、あなたならどうしたのですか?」という裁判官への問いかけは心からの疑問だったのです。その場のその立場にあれば当然として受け入れたことを、事後になって批判される不条理。それでも失われたものの大きさゆえに誰かに背負わせるしかなく、その矛先は必ずしも正しい方向を向いているわけではないのです。
確か映画になってたなあと何の予備知識も無く読んだんですが、タイトルから漠然と感じていた静かなトーンの話とは全く違う展開になりました。ハンナの関わった事件の描写は、起訴状の淡々とした表現ながら阿鼻叫喚そのもので、あのカチンの森事件のように事の大小こそあれ、適切な表現ではありませんが戦闘以外で無駄に命を落とし、生存者がいないせいで闇に葬られた事実がどれ程あったのかと、改めて慄然とさせられました。
それはまた収容所という閉ざされたおぞましい空間も同様で、救いの来ない闇に蠢く人間関係と疑心暗鬼に歪められた世界は、実験で狂った学生達の比ではなかったでしょう。
身体の弱い子を朗読者に選ぶ事で、僅かな間だけでも苦役から救ってやったハンナの心は、その後坊やと呼んだ私に何を見たんでしょうか?

冒頭に書いたように、恐らくは言語の違いからくる感性の違いもあり、必ずしも受け止められない作品ではありましたが、何となくこの国も新たな実験材料にされつつあるのを感じる昨今、何がおかしいのか考える頭を放棄しちゃならんのだとか思ったのでした。
頭悪そう・・・・(^_^;)
 




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