上方四天王と言われた、松鶴、米朝、春団治、小文枝の中でもひときわ大きく輝く巨星でした。
戦後の一時期絶滅寸前と言われた上方落語の復興に尽力し、「算段の幸助」「菊江仏壇」「土橋万歳」等忘れ去られた噺を掘り起こし、落語家として初の文化勲章を授与される程大きな功績を残した人物の割には馥郁としたその芸風は、大卒落語家の草分けとしてのそれであるのか、やや時代は違いますが古今きっての大名人三遊亭圓生の裏面の狷介さとは、東西の大看板というだけでなく対照的な感がありました。
後に愛弟子枝雀が発展させ十八番とした名コンビ清八、喜六(江戸前でいう熊さん八っつぁん)の可愛らしい喜六の萌芽は「ふたなり」の森の中で、喜六の「いててや、いててや!」の台詞の中に垣間見得るような気がします。
これも枝雀の話ですが真を打った小米朝時代の渋い芸風から一転、爆笑王への道をスタートするに当たって越え難い師の影を思う時、そうならざるを得なかった転機が晩年の悲劇へと繋がるような気がしてならないのです。落語ファン以外には何言ってんだか分かりませんよね、失礼しました(^^;;
晩年アジア大陸を旅した思い出を高座にかけてましたが、その時見聞した北朝鮮の先代指導者のヘアスタイルがアメリカの星条旗をイメージし、国交復活への意思表示だった事はあまり知られていません、嘘だけど。
では追悼の似ている川流です。
髪型で 復活成さん 米朝間 と 上方の復活成さむ 米朝さん は似ている。
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