特に今回の著者は東京芸大の教養課程で受けた三木の授業に魅了され、卒業するまで彼の講義を取り続け今に至ってその内容を本にしたという。
医学者ではない人間にまでこれほど大きな影響を与えた三木という人の、型破りで強烈な個性とその想いの深さが伺えようというものではありませんか。か、って言われてお困るだろうけどさ。
まだ真ん中あたりなんですがキモをここに持ってきた構成もあり、今感じてる事を知的興奮と共にちょいと語らせてくださいね。
動物として進化の極みにあるようなあたくしたち人間の中にも、遥かな昔海の中を揺蕩っていた頃の未だ原生生物だった記憶が息づいているという。例えば聴覚。
音が伝わるのは無論空気の振動でありますが、最終的に人体がそれを知覚するのは鼓膜の奥に満ちている液体の振動からであり、それは人体に残った海なんだと。人体に残された海・・・どうすかどうすか、いい台詞じゃありませんかあ~ ( *´艸`)
こころはどこにあるのか?
人体は動物的器官と植物的器官に大きく分けることができ、前者は筋肉や骨など外的に動的なもの、後者は消化器官で内的に動的なもの。視覚触覚などの五感も前者でありそれは近くにあるものを知覚する感覚として意識に通じており、後者はより遠くにあるものを知覚し、それを感得と呼ぶならばまさにこころはそこにあるのだという。
なぜならば。
太古の海辺で単細胞生物が小さなくぼみを持ちそれが通じて一本の管となり、捕食と消化を行うようになりそこからすべてが始まったんであります。なんぼ進化しようが動物はみな変わらず一本の管なんです。
何億年×365日の間潮に揺られ太陽に焼かれ月に照らされ、干潮満潮に転がされその気の遠くなるような繰り返しの記憶はすべての動物たちの奥深くに刻み込まれておるのです。
サンゴやクサフグがカレンダーや潮見表読むわけでも無く、八月の満月の晩に時過たず出産するのはこの記憶によるんであります。
だとすれば。
人体の消化器官にも同じくそれが残されているに違いなく、こころはまさにそこから来るのだという。
どうすかどうすか?
いや~実に面白いですね~!そうでもないすか? 一人で興奮してますかねえ・・・"(-""-)"
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