知的興奮とはまさにこれであります。
人類学者である著者は神話の研究中、文字以前の人類の思考について考えるにあたり土偶を研究対象に選びます。
元々造形としての土偶ファンであり手元にレプリカを置くほどで、最初の発掘から130年の間絶え間ない論争を生みながら誰一人としてそれが何であるか特定するに至っていないという現実を踏まえながら。
ただし何らかの呪具であるという点においてはほぼ意見の一致を見ており、では何を表しているのかということになると百人百様の「俺の土偶」があると。
実はこの「俺の」という表現こそがこの謎解きの肝であり、それは極めて学術的な論考でありながら土偶はフィギアと言い切ったりフィールドワークを「縄文脳インストール作戦」と呼ぶ等、ある種現代の若者的な新しく軽やかな感性がこれまで語られたことのない文脈で土偶を読み解くことに至るからであります。
フレイザーの「金枝篇」によるところの大地の恵みに対する植物祭祀、日本では天皇陛下が行われる大乗際を頂点としながら古代においては対象となる呪具が見つかっていないことから、もしや土偶がそれにあたるのではという着想を抱いた筆者は縄文人も見たであろう風景と吹いていた風、吸っていた空気の中にヒントを見いだすべく山野へと分け入るんであります。これぞ縄文脳インストール作戦。
そしてその根本には狩猟採集で食物を得られた豊かな環境とはいいながら、またやがては自らの手によって原始的な栽培を始めていく中でも日々の糧を得るための、つまりは生き残ることの困難さは現代の比ではなかったであろう縄文人にとって自然はよりリアルでありシビアであり、だからこそ土偶はデフォルメされたイメージではなく写実的表現であるはずだという確信があったんであります。
ここからあたくしがこれまで読んできた縄文に関する書物とは一線を画す論考となりまして、上野の縄文展でハマって以来色々な本を読んだ中で常に感じていたのは学問的考察というにはあまりに情緒的な傾きが強く、甚だしくは縄文土器は月の光を集める器であったなんてのがありまして。
故永六輔さんも遮光土偶は夕日に向かって目を細める人物像だなんてんで。
それらは全て縄文人に対する思い入れの強さが彼らを夢見る世界のファンタジーとしてとらえたことに起因するものと思われ、あたくしはこれらをして「宇津救命丸的思考」と名付けたんであります。
昔やってたCMに「赤ちゃんも夢を見るのかしら?」ってのがあったじゃないすか。
ある程度に育つまでの赤ん坊なんざお乳飲むこととそれを出すことだけの存在であるにも関わらず、可愛さ愛おしさという、すなわち対象物に対する過度な感情移入がリアルな現実を見誤らせるという。
縄文人も夢を見るのかしら?みたいな。
夢見てんのはあんただよ!
そして場違いなある場所で著者は天啓を受けることになります。
それはバイト先であった神社の昼ご飯に祢宜の奥方が持ってきたあるもの、普段目にするそれは例えば切り身の鮭しか見たことのない子供があのまんまの姿で泳いでると思うように食物としての体裁を整えられており、それがなされる前の形こそまさしく縄文人も見たであろうリアルな土偶のモチーフであったのです!
現場百遍という言葉が示す通り野山をめぐってインストールされた縄文脳だからこそそこに気づいたんでありましょう。
ここから一気に謎解きは進みタイプの違う土偶ごとにその対象物を発見して行くことになるのですが、そこに至る描きかたが実に上手い!
それまでの過程を記述で引っ張ったあとに実際の写真との比較を見せる手法で、まさに百聞は一見に如かず!
驚くべきは同じモチーフを描いたいわゆるゆるキャラの中に土偶と酷似したものがあることで、三千年以上の時を経た現代人の目が先史時代のご先祖様と何ら変わっていないということであります。
ここで重要なのは見た目の類似というある種の偶然性を極力排除(もっと難しい言葉だったけど)するため、一万年に及ぶ縄文時代の気候的環境的様々な変遷の中でそれぞれの土偶が多く発掘される時期とモチーフが繁茂していた時期を比較することで、より根拠を確実なものにしていくアカデミックな視座であります。
マジ面白いんだってこの辺も。
でね
ここではあえてそれが何であるかは書きません。
口はばったいようですがこれは多少なりとも土偶について頭を悩ませたことのある人が、著者の労作を読むことでこそ知るべきだと思うから。
はっきり言ってネタばらしから入っても何のありがたみも無いからね。
偉そうにいうお前はどうなんだって? 写真載っけときますけどあたくしのパソコンのモニターの上には代表的なやつが乗っかってますよん。
大学を回っての発表の場で爆発的反響を得たほどにまさしく130年に及ぶ論争の決着はついたといえるでしょう。だってこれ見りゃ一目瞭然だもの~。
あたくしここで小林秀雄先生の「様々な意匠」言うところの「直感」もしくは「宿命」とはこれであったかと思い当たりまして。
あれ読んだ時はピント来なかったけどまさしくこれであろうと。
しかし最終章に至って著者が憂慮するのはどう考えても普通に見て分かるようなことになぜこんな長い間気づく人間が一人もいなかったかということで、そこにあまりに権威主義化したアカデミズムの硬直状況があり、現にこの研究結果に意見を求めた専門家といわれる人たちのほはぼ全員が黙殺し、あろうことか発表の邪魔をしようとする輩までいたという。
門外漢への白眼視もあったでしょうがだからといって筆者は膨大な基礎データの集積無くしてこの結果に至らなかったという意味で専門家への敬意は失っておりません。
にしてもですよ
イチローや大谷翔平みたいに誰もが知るところのスーパースタ=もいますが、活字離れのはなはだしい世の中ではめっきり影の薄くなった文壇(とはちょっと違うけど)にもすんごい奴はいます!
諸君~、竹蔵史人を記憶せよ!
まだまだ何かやらかすよ、この人。
いろいろ能書き垂れたけどどなたでも興味あったら是非読んでみてね!
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