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2015年8月19日水曜日

解き放たれた軛を知る

以前「関東大震災」という本の読後感を書きました。
http://nikkotikusan-nikkotikusan.blogspot.jp/2015/03/blog-post_26.html

言語に絶するすさまじい被災状況やその後に起こったデマによる治安の悪化についてはある程度知ってましたが、強く印象に残ったのは、人々の身勝手な振る舞いにより救援活動が大きく遅れることになった事実でした。興味本位で被災地に入り列車の運行に支障をきたしたり、食糧不足に拍車を掛けたり、更には被害者の身体から金目のものを引き剥がす。そもそもあれだけの大火災になった原因は、警官などの制止を聞かず各々が持ち歩いた荷物に引火したことでした。
そこでふと思ったんであります。
東日本大震災の後世界を驚嘆せしめ称賛を浴びた、あの粛々として統率のとれたかのような日本人の態度となぜそんなに違ったのかと?もちろん例外もあり一部には似たようなこともあったようですが、全体的に見れば人災といえるような騒ぎにはなりませんでしたよね。
だってさあ、昔の人って今よりもっと礼節とかわきまえてた印象ありません?そんな話聞くし。
そこでこの本を読んでみました。「昔はよかったと言うけれど」


大正から昭和初期の日本人について書かれた当時の新聞記事投書、外国人の日記、布告公文書等様々な文章から、その生活態度全般を俯瞰的に書いています。驚きましたよ~!思ってたのと全然違うんだもの~!
汽車の駅や銭湯、パーティーの会場、あるいは往来であるいは公園での人も無げな振る舞いといおうか傍若無人といおうか、並ぶにあたって列を作ることもなく我先に押しかけ場所を占拠、ごみは捨てるわ放歌高吟するわところ構わず排泄するわ、物は盗むわ裸で歩くわ。公徳っつ~んですか?そんなもんどこにあるんだ?って感じ。
子殺し親殺し虐待。商売では目方誤魔化す粗悪品掴ませる契約の一方的破棄。子ども甘やかすから悪戯じゃ済まされないような悪さするし、教える教師も猥褻だの汚職だの。修身や教育勅語は教えても身につくことはまた別問題。拝金主義で利己的。長幼の礼も躾もあったもんじゃない。
もちろん様々な面がありますが、公共のモラルについてははっきり現代社会の方が良くなってるようです。

ではそれ以前の節目というのはどこにあったのでしょう?どうやら明治維新にまで遡るようです。
つまりはこういう事かと。古い体制から一気に新しい世の中になった時、人間の心や価値観はそれについて行けないんじゃないでしょうか。明治より以前、人々の暮らしの範囲は家庭からせいぜい村までであり公の場も極めて狭かった訳ですな。だから問題の時代においても、近しい人々との関係の中では善良で親切で清潔であったと美しい日本人の姿が一方で書かれています。実のところ根本は概してそこにあり、公共と言う概念そのものが無かったってことなのね。
一つの時代が続くと安定という事について何やら因習であるかのように感じ、新しい時代はあたかもその軛から解放してくれる使者として迎えられ、野放図に自己が増殖していくという事は特にこの国ではままあります。このような風潮を嘆き是正していかねばと一部の人たちから始まったその精神の涵養に連れ、少しずつ変わっていったものの、関東大震災当時においては未だその途上にあったのでしょう。あたくし腑に落ちたんであります。

あのピラミッドの落書きにも「今の若い奴らは」と書かれていたという程に、どんな時代にあっても古きを懐かしみ今を嘆くというのは人の常。現代社会においても過去には考えられなかったような問題が現出しております。グローバリズムが第二の維新だとすると、それについて行かれない人々の心は見方によっては荒廃の一途とも映るかもしれません。しかし一方で三つ子の魂百までも(子供の頃サリーちゃんの三つ子だと思ってました)と言われる如く、我々の根本は美しい日本人であると思います。思いたいです。やっぱ震災後の姿・・・あれに尽きるよね。
ま、アゲサゲありますが実はちょっとずつ良くなってることもある訳で、変えちゃならん事は変えない方がいいと思うけどね。ね!アベちゃん!

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