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2022年7月25日月曜日

長文で亡き友を語る

先月北海道に行ってまいりましてその時ちょこっとつぶやいたのですが、亡くなって二年目にしてようやくウィルス騒ぎで行きたくても行かれなかった親友の故郷での三回忌でありました。

長文になりますので適当に飛ばし読みでもしていただけたら幸いです。


二年前急逝した 浅野は学生時代からの親友で卒業後もほぼ毎月のように飲み、一時毎週必ずやっていたニッコー屋上飲みクラパイにも毎回のように顔を出していたためゲストでみえた方々とも知り合い、あたくしのカヤック仲間を中心にそれ以外にもたくさんの方とお馴染みになっておりました。

数年前からかなり込み入った事情により、決して仲違いしたわけではないのですがライン以外会うこともなく時間が経つうちいつか疎遠になっておりまして、ある時期なぜか急に彼のことをあれこれ思い出しては不思議に思っているところへ訃報が入りました。

虫の知らせのように。

親御さんや親類の方にはいつもあたくしの事を話していたそうで、彼の携帯から番号を拾ってかけてきてくれたのでした。

既に近親者で葬儀を済ませたとの事でしたがすぐにでも行きたかったところを例の移動制限で動くもならず、命日であるこの六月ようやく思いを果たせたような次第です。

ご自宅での法要で初めてお会いした御両親は父上がびっくりするほど本人に似ておられ、明るい母上と従妹の方と四人家では見せることのなかったという故人の暴露話に泣き笑いのひと時で、帰省するたびあたくしの事を話していたという彼と、またご両親に向けての供養にもなったかと思いまして。

にしてもですよ

独り身で亡くなったわけですし一人っ子でもあり、既にご高齢のご両親が旅立たれた後彼の生きた痕跡がどこに残るのかと考えれば改めて人の一生というのは何だろう?との思いが募り、それこそあふれるほど思い出を共有しているあたくしがその一端や人となりを書き残すことでそれになるのであればと、更に長くなりますが出来たら浅野っていう男がいたんだなあと心の片隅にでもお留め置き頂ければ幸いです。


浅野と初めて会ったのは立正大法学部の教養課程クラスで、50人ほどいたうちのひとりだったためオリエンテーション旅行で八人ほどの同じ部屋になるまで話したことはありませんでした。

今更ですがもう40年も前の事です。

自然そのメンバーが当初のグループとなり、誰かの部屋で焼肉やろうと話がまとまり浅野の部屋に集まったわけです。もちろん実家が肉屋のあたくしがお肉の係で。

熊谷の田舎にあった学生ばかりのアパートの部屋は入ってびっくり足の踏み場もないほど散らかっており、まずは掃除となりましたがごみ箱が埋もれていて探したくらいでありました。

ひとり用の冷蔵庫では棚三段ぶち抜きで玉ねぎが伸びており、ビニール袋の中からは発酵した果実の良い香りがしたものです。


実生活はそんな具合でしたが人間としてはマメな奴で誰とでも話を合わせることができ、というのも博覧強記というか何でもよく知ってるタイプ。

それでいてひけらかすでもなく飄々として聞き上手なので、滑り止め第三希望くらいの大学にもぐりこんで屈折した仲間の良き相談役になっておりました。

あたくしも講義が早い日の前夜に泊まりに行くようになり、学生らしく酒飲みながら口角泡を飛ばすこともありましたがただ黙って煙草吸ってるだけで何時間一緒にいても苦にならない、そんな関係になっておりました。

熊谷は夏の暑さが厳しいところで鉄筋コンクリートの部屋は風も動かず、ベランダから渡れる隣の棟の屋上でパンツ一丁になり二人で雷ダンスを踊っていたら本当に夕立が来たなんてこともありました。

もっと広くてきれいにしている友達の部屋もあったのですが客が帰ると掃除機かけて布団干すような奴だったりして、狭くて暑くて臭い浅野の部屋に入り浸っておりました。

そういえば失恋した日に浅野を訪ねたら留守でその友達の部屋に行きヤケで飲んだくれ、時効ですけど勢いで運転して浅野を迎えに行ってまた飲んでますと「ちょっと出ようぜ」と。

線路際の道を肩並べて歩いてたら「お前なんで最初に俺んちに来ねえんだよ!」「行ったけどお前いなかったじゃん」「あ、そうか・・・」なんてことも。

ポケットに手を突っ込んで斜にこっちを見ていた姿は今もそのまんま浮かんでまいります。

ハンググライダー部のあたくしに付き合い千葉の磯根崎で初めてリッジソアリング(崖沿いの風に乗って長時間飛行すること)した時、テイクオフのワイヤー押さえていてくれたのも奴でした。

帰りにタイヤパンクして苦労したっけなあ。

再ブームになっていたボーリングにもよく行きまして、これもブームで田舎に出来たカフェバーでブラッディマリー頼んだら「ヘイお持ち!ブランデーマリーね!」なんてんで「絶対こないだまで居酒屋だったよなここ」と二人で大笑いしたなんてこともありました。

人に合わせる方が多い割に芯は通っており骨っぽいところもあり、あたくし行かなかった時ですが夜中の熊谷界隈を車で走っていたら地元のゾクに絡まれ、他の二人が青くなってる中一人出て行って話をつけたという伝説も残しております。

犬猫鳥など小動物が好きで泊りに来た時うちの実家で飼っていたクロベエ(猫)ノンベエ(犬)を可愛がっておりました。

四年生の時なかなかアクの強い奴とつるむようになった時期があって結構影響受けておりましたら、「お前のいいところが消えちゃうよ」と耳の痛い忠告をしてくれたこともあったなあ。


卒業後すぐ横浜で新社会人となったあたくしの山手の部屋にもよく泊まりに来まして、会社があったみなとみらいで再生する前の古い桜木町や関内を飲み歩きもしました。

根っからの酒飲みなあたくしと違い酒そのものより雰囲気が好きなタイプで「とりあえず生」ではなく、なんちゃらフィズだの甘い酒から入るのには閉口でしたけど。

当時「渋がる」と言いまして要するにカッコつけて浸るってことですが、解体予定だった赤レンガ倉庫の近くにあった税関倉庫前の暗い海を見ながら埠頭にうんこ座りしていつまでもタバコ吸って渋がっていた時、「仲間内でだれか早死にしたら墓前にたばこ供えて渋がろうぜ」なんて話しました。まさか奴がそうなるとは・・・。

銀座松屋の裏に奴の職場があったのでそっち方面の外回りがある時は呼び出して一緒にランチしまして、サラリーマンの日常を垣間見たり。


結婚後のあたくしの新家庭にも時折遊びに来ては酔いつぶれてテーブルの下で寝ているあたくしをうっちゃらかしてかみさんと話し込んでたことも再々あり、彼女曰く「あなたの友達の中で浅野さんが一番話しやすい」とか。

なんでも旦那への愚痴を他の友人はあたくしの肩ばっかり持つのに奴だけは公正に話を聞いてくれるんだとかで、おそらくそのあたりの聞き上手さで主に苦労した玄人筋の女性に良くモテた男でありました。

お相手を三人知っててうち一人は残念ながら果たせませんでしたが婚約者として家に連れてきたし、最後の一人はクラパイにも何度か。

「あしゃのん」といういい年した男にあるまじき?甘ったるい呼び名は娘ほど下の最後の彼女がつけたものでした。

そういやその子の引っ越しに頼まれて車出しまして、顎で使われてるの見て「小娘に使われてんじゃねえよ」なんて。

引っ越しと言えば式の直前元カノと切れなくて駆け落ちすると言って学生時代の友達から夜電話かかってきた時も、浅野と二人で駆け付けたものでした。

息子二人連れて男四人の湯河原ツアーの時には風呂の後坊主たちが「浅野のおじちゃんの方が父ちゃんよりチ〇チ〇大きいなあ」なんて ( ;∀;)


いつもノーネクタイの黒っぽいスーツ(部屋干し臭い)着ててカラオケでは「ライヴィアンローズ」ポケットに手え突っ込んで歌い、そりゃいいんですが外遊びの時もそのカッコで来るもんですからN部君と初めてファルトボートで那珂川下るので一緒に行くことになった時「濡れるから絶対スウェットとか着て来いよ!」と言ってたのにいつも通り。

仕方ないからあたくし履いて行ったジーパン貸しましたけどね。

これもN部君と三人スキーに行きまして、北海道出身だからさぞかしと思ったらヘタクソで、そりゃいいんですがコケるとそのまんま座ってて我々が登って行って板履かせてやるまでタバコ吸ってたり。それでいてウェアの胸元雪で一杯なのに一向平気な顔してるとこだけは道産子っぽかったり。


博覧強記と書いたように何を話しても知識では敵わず子供時分から好きだった詩歌の類ならばと、当時凝っていた漢詩の一節をmixiに上げまして

 ただ今 ただ西江に月のみあり 嘗ては照らす 呉王宮裏の人

するとすかさず「呉王宮裏の人とは西施の事だな」とコメント。次いで

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

なんて芭蕉で返しやがりまして、きざな野郎でしたよ。あたしなんぞ最初「ぞうがた」と読んでましたもんね、クッソ~!

啄木の

 しんとして 幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の 焼くるにほいよ

という詩を書きますと

 かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 聲の荒さよ

で返しやがって、あたしゃこの詩知りませんでしたもんね。ああ思い出しても悔しい。


あれやこれやきりがないのでもうやめますが思い出すほどにいかにかけがえの無い友であったかが今更思われ、何で死んじゃうかなあ、話したいことが特に最近山ほどあるってのに。

いい奴だったなあ。


亡くなってしばらくして、知らせてくれた従妹の方からセピア色に変色した未投函のはがきが送られてきました。

浅野が旅先の釧路からあたくし宛てに書いたもので、どういうわけか出さずじまいのまま保管してあったのを遺品の中に見つけたという。

奴らしくこじんまりした字で街の様子が書かれており食べ物やワインが美味しいこと、最果てのイメージに反して賑わっているけど夕方霧が出ると運河に映る街灯が寂し気で旅情を誘うこと、翌日は親父さんに借りた車で納沙布岬まで行き帰りに同窓生と会うことなどが綴られ、帰ったらまたいつものように遊ぼうぜと結ばれておりました。

霧の釧路にて 浅野聡 と


飲みながら読んでたら切なくってね~、一人ぶつぶつ話しかけておりましたよ。

帰ってこないだろうからいずれこっちから行くわ。その時はまた飲もうぜ。

俺最初生だけど、お前どうせまたモスコミュールとか言うんだろうな。

じゃあそれまで。またな。




では実にベタですが手向けに一曲「涙そうそう」
どうしても最後までまともに歌えなかったので、一番ましなバージョンで。





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