この本もそんなひとつ。なんだかな~の表紙ながら、そういや誰でも知ってるこの方について何も知らなかったなあと。
知ってますか金次郎?すんごい人!
幕末も近い波乱の時代小田原藩の中農くらいの家に生まれましたが、親父さんが栢山善人と呼ばれるほど篤志家の割に理財に疎かったため家が没落し一家は離散。
叔父の家に身を寄せた彼はせっせと働きながら百姓に学問は要らぬと言われても菜種を植えて灯火の油を取ったり工夫して勉学にいそしみまして、あの銅像はこの頃の姿なんですね。
長じて六尺豊かな大男になり声も雷鳴のようだったと言いますから一種の偉丈夫だったのでしょう。
お百姓としてのノウハウを積んだほかに早くから貨幣経済を理解し、年一回お米の収穫の他に現金収入を得るため家老屋敷の中元として奉公します。
一粒の菜種から燃料や売ったお金を増やした少年時代の経験で、小さなことの積み重ねがやがて大きな蓄積となる積小為大と考えお金を貸して利子で増やすことで次第に蓄財していきます。
こう書くとセコい金を貸して取り立てる阿漕な町金のように思うかもしれませんが、金次郎の根本は世のため人のために生きる報徳思想であり、借りた人の状況次第で利子の多寡を決め場合によっては無利子で貸すことも寄付することもありまして。
更に奉公人たちで出し合った基金のようなものを設立し窮状に応じて借りられるようにしたり、返済方法を教授したりと次第に財務顧問のようになってゆく姿がご家老の目に留まり、借金だらけのお屋敷の財政再建を依頼されて成し遂げます。
ついには当時老中首座を務めていた小田原藩主大久保忠真公に推挙され藩自体の財政再建を希望されるのですが、そこは守旧派への配慮もあり先ずは飛領である下野の桜町(現栃木県真岡市)の復興を手掛け成功例を示させようということになります。
徳川末期のこの時代米を基本とした経済は行き詰まり度重なる飢饉で疲弊した農村は荒れ地となり人心は荒廃し領主は借金だらけと、まさに八方塞がりでありました。
金次郎の復興策は実はシンプルで、現代風に言うとプライマリーバランスの黒字化(今財務省が唱えてるのは嘘っぱちだけど)と建設国債発行によるインフラ整備と産業振興となりましょうか。
水利や道を整え荒れ地を開墾し新田を作り、勤勉な者は表彰し怠け者は教え諭し。
基本になるのは勤勉・分度・推譲の三つの柱で、すなわち惜しまず働き分にあった暮らしをし他人のために尽くすという。
様々な障害を積小為大の言葉通り超人的精力で進めていった金次郎でしたが本家小田原藩からの度重なる妨害に嫌気がさし雲隠れしてしまったことがあり、面白いのはそこで初めて人々が彼の仕事の重要性に目覚め方々探し回った末みんなして迎えに行ったことです。
それ以後順調に回りだした復興事業は無事成功をおさめます。
伝え聞いた他領からも依頼が殺到しますが分度の前提や堅い覚悟を認めなければ容易に腰を上げない金次郎が、それでも応じた案件は十年単位と息長く各小村からついには日光神領にまで及び徳を慕う弟子によって報徳運動は各地に伝播していきました。
金次郎の仕事は徹底した現場主義で少年時代から培った百姓としてのノウハウとアイデア、初期投資を惜しまない大胆さとそれを支える報徳資金など積み上げた財力、さらには回収した資金を回していく継続性によって成り立っており、これだけの才覚を己のためだけに使ったとしたらどれほど巨万の富を築いたかしれぬところを70歳の偉大な生涯を閉じた時手元には一反の田圃すらなかったのであります。
まさに経世済民、世のため人のため。金次郎、偉い!!
で、あたくし思うんであります。
同時代を生きた幕末の志士達にとかく人の心は傾きがちでかくいうあたくしも大好きでありますが、時代を支えた大本は実に金次郎の寿命を削るように地道な活動で、その上にカッコいい英雄の活躍があったのであると。
だからこそ以前はすべての学校に銅像があったんですね。
なのにさあ
本読みながら歩いてるのは歩きスマホ助長するってんで禁じられ、最近は座ってる銅像になってるんですって?
アホかっ!形だけ見て真実が分かるかあ~!!
あと長くなってすいません、あたくしが一番金次郎が偉いと思った逸話をひとつ。
小田原時代の若き日家老屋敷の奉公人たちのお金の相談に乗っていた頃、若く美しい(あたくしの想像)腰元がお金を貸してほしいが病気の母の薬代なので返すあてがないと。
そこで金次郎は炊飯時の燃焼効率がいい薪の組み方を教え、三本使うところを二本に節約し残った薪を貯めてお金に換え返済する方法を教えたという。
これねご同輩、あたしらだったらどうします?
そうかそうかよしよし、だったら別に返さなくってもいいんじゃよ。その代わりにな、えっへっへっへ!
金次郎、偉~いっ!! ( *´艸`)
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