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2015年9月4日金曜日

久々に読後感する~又吉直樹「火花」~

たま~に書きたくなる読後感です。自分でも何を言ってるのか分からず完全に書く自分自身に酔ってますが、そこはひとつ鷹揚にお聞き流しのほどをお願いしておきます。


この世にあるものの中には最小公倍数的なものと最大公約数的なものが存在すると思う。
例えば人気のあるラーメン店は最小公倍数的である。味覚の嗜好という極めて個人的なものが、店舗という限られた空間の中である範囲の人間の好む感覚の共有として集積される故に。
例えば政治における民意というのは最大公約数的だ。世論調査に象徴される如く、円グラフに占める面積の大小で表されるそれは、斧で割られた薪のように荒い表面ながら確かな存在感を持っている。

「笑い」と言う言葉におを付けて「お笑い」となった時、それは現象を表すものから商業的意味合いを持ったより名詞的な言葉になる。そして「笑い」が最大公約数的であるのに対し、「お笑い」は最小公倍数的だ。
何を面白いおかしいと感じるかはこれも極めて個人的な感覚であるが、人前で演じられるものに対して観客が笑う時、それは「お笑」いに関しての最小公倍数となる。やがてより大きな状態で沸き立つようになると、それは既に演じられることに対してではなく観客の自分の周りに対しての共感なのである。つまり「売れている」という状態は最大公約数的になる事であり、逆説的ではあるがその波と自分の「笑い」に対するこだわりとにどこで折り合いをつけるかが、その芸人の矜持であると言えるかもしれない。

この小説の主人公徳永が師と仰ぐ神谷は、徳永の目からは他者を寄せ付けない絶対的才能と笑いに対する強烈な思い入れを持った男である。しかし純度の高すぎるその思いは周りとの軋轢を生み、芸で食う事が出来ない故に芸を食うような自家中毒に陥ってゆく。
あたら才能に恵まれた人間が必ずしも成功を修める訳ではないという一見ありがちなモチーフを、かなりな数を読み込んだであろう練れた筆致と会話主体の展開で安心感を持って読ませる手腕は、芸人にしてはという但し書きを瞬時に忘れさせ、「文章」がどこから「文学」になるのかということを改めて認識させてくれるかのようだ。
そして刮目させられたのは、深夜→ゴールデン→バラエティーの仕切り、といったプロセスを踏むためにお笑いを足掛かりにする計算高さを思われがちな昨今の若手芸人が、実は苦悩と焦燥にかられながらも真摯に己と向き合っている姿であった。放送業界の懐事情によりギャラの安さで集められ使い捨てされる彼らは、消耗品であることを感じ、恐れながらもやはり夢を見、そんな同世代の仲間を戦友としての誇りを持って見ている。

ほんの短期間売れた後結局食い詰め、その後の人生にそれぞれ再スタート切る彼らの中で、徳永達スパークスもまた解散の時を迎える。最後のステージで徳永が連呼する「死ね!」は冒頭熱海での出会いの場面で神谷が連呼した「地獄!」へのオマージュとも取れる。憧れてやまなかった師にそのとき彼は完全にシンクロできたのだろうか?筆者が漫才師ならではの、掛け合いのみで展開されるこのくだりは感動的である。

一方の神谷は短時間すら浮かび上がることができず業界的には消えてしまったのだが、自己破産まで追い詰められても本質は変わることがない。テレビに出るための切り札として己の身体に手を入れ、それすらスベってしまう姿は哀れであるが、「笑い」というものが「笑われる」と同義語である部分においてそれを体現してしまう神谷は、やはり徳永の信じたとおりの天才なのかもしれない。
そして彼の中の天才は、夜空を染める花火のように人の目に触れ称賛されることは無くとも、たとえ野垂れ死にの最後を迎えたとしても、常にスパークし続け彼を彼たらしめる火花なのである。


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