仏陀の哲学がどのように宗教になったのかをめぐるあたくしの旅はまだ途上。
最近はより哲理に近いであろう禅を知るため道元の本を読んでおります。
只管打坐とはただただ座ることであってそれは悟りや解脱に至るための方策としての修行ではなく、そもそも道元の求道のスタートが仏法の言う人間誰しも生まれながらの仏であるならば修業は何のためにするのか?との問いかけであって、その答えが座禅を組む即ち仏になることであるという。
無論ただ座って鼻くそほじくってりゃいいってんじゃなく一つの境地としてでしょう。
素人考えだとそれは無の境地なんだろうと思いがちですがそうではないと。
人間であるからには当然様々な雑念は湧いてくるもので、例えば誰しもある昔やっちまったことを急に思い出していたたまれなくなるみたいなのも含め、それを消そうとすることもまた我欲であり吹く風を受け流す木々の葉のようであれ(ここはあたしの考え)と。
分かったような分からんような、であります。
14日N部ハウスでのホタル観賞会は仲間飲みとしては大変楽しかったものの雨にたたられ数えるほどのホタルには出会いました。
しかしかつては毎年長野の辰野まで出かけていたほどのホタルフリーク?としてはここ何年も見られていないのが残念極まりなく、しかも人生の残日を考えれば後何回会えるんだよ?と。
生憎その後の週末はすべて埋まってしまっており(全部仕事だけど)盛りの短さを思えば平日行くしかない。ど~しても見たい!
で、今日火曜日と決めN部君とも打ち合わせておったのですが、直売会の週に入っても在庫が積み増せておらず仕込みの為に結構タイトな作業が待っております。
そこへ終業してから飯能へ駆けつけ飲んで見て翌日二時起きして直帰、それからまた作業という強行軍では恐らく直売会まで体力持つまいと。いつも疲れてるからね。
ホントは今日午前中で上がって行こう思っててそうすりゃ向こうでかなりゆっくりできて体力温存できると。
けどみっち部長から早上がりしたいと先に言われちゃそうもいかず、泣く泣く諦めることを心に決めたんであります。
そしたらですよ
見たい見たい思ってた時には前回のイメージで数匹しか思い浮かばなかったホタルが、蒼さをたたえた森蔭の闇に次々浮かび上がり見る間にあたりを染めるほどの数が舞いだしたんでありますよ、頭の中で。
なんつ~んでしょう、あたくしがいなくとも世界はそこにあるというか自然の営みは止むことなく回り続けるというか、見たいという我欲を捨てた時に得られた透徹な心境でありましょうか。
一種の禅の境地?
仏教の悟りには下から上まで53あるそうで、その一番下あたりかもしれません。
加えてそれをあたくしに見せたいと切望してくれる人間の気持ちもあくまで利他であって一種の仏性でありましょう。
そういやあいつ頭丸めてたもんな ( *´艸`)
もう大丈夫!行くまでもなくホタルはあたくしの心に飛んでおります!
ウソだよお
やっぱ見たいよおおおお~ "(-""-)"
0 件のコメント:
コメントを投稿